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糸脈 6

おはようございます。先週末から今日は「」の予報でした。
多少はイイのですが大雪は困ります。足元を気をつけてください。

さて、下橋敬長(しもはし ゆきおさ。1845−1924)は代々、朝廷の臣
である一条家侍の家柄
で、慶応3年(1867)により家督を継承しています。
維新後も京都に留まり、皇学所監察助勤・御陵衛士などを経て京都御所
に勤め、殿丁・仕人・殿部などを歴任しました。敬長が述べた『幕末の宮廷
には「天脈拝診」について書かれている部分があります。その中には
「同じ典薬寮に、医生と医師の二つがある。それは何故にと申しますと、
親が天脈(天子の脈)を拝診いたしますと、息子がつき出しに(最初から
医生を経ずに)典薬寮の医師になる。例えば、あなたが天脈をお握り遊ばすと、
あなたの御子さんは、に典薬寮の医師になる。あなたが天脈を握ったことが
ありませぬと、あなたの御子さんは医生から行く。それ故に、其身天脈を拝診
せさるれば、其子任官の節は、父同様典薬寮医師に補せられる。其身天脈を拝診
せざれば、其子任官の節は、薬寮医生に補せられる(中略)所が、賀川は可哀
さうに、天脈を拝診を致しませね。賀川だけはどうしても出来ぬ。是は皇后さん
の方で、お産の為の医者ですから、皇后さんのお脈が握ってますが、天子様の
お脈は握らぬ
のでございます」(103コマ)。

「典薬寮」(てんやくりょう/くすりのつかさ)とは、宮内省に属する医療・
調薬を担当する役所です。その歴史は古く、 天武天皇5年 (676) に設置
された外薬寮が大宝1 年(701) で「大宝令」により組織を整えたものです。

「賀川」とは、江戸時代の産科医・賀川玄悦(かがわげんえつ。1700−1777)
に基づく賀川流産科術の産科医を指します。玄悦は母子を共に守る目的で出産用
鉗子を発明し、胎児の正常胎位(胎児が母体中で頭を下にしていること)を
世界に先がけて発見したことでも知られています。

また、『幕末の宮廷』には「(問)典薬寮が出まして天脈を拝診します場合は…
(答)天子が小御所の御上段に出御遊ばされ、それへ向けて、お医師が六位
(日本の位階における位の一つ)の袍(朝服の上衣)を着て出ます。さうすると、
御上が御手をお出し遊ばれます。そこで天脈を拝診します」(106コマ)。

「天脈拝診」とは「天脈をお握り遊ばす」とあるように文字通り、天皇の手
を握って脈を取る
ことです。幕末の時代には天皇に対してさえ「糸脈
(いとみゃく)は行われていなかったということになります。 つづく・・・

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糸脈 5

おはようございます。今日は「大寒」です。熱海では早咲きの
河津桜」が咲き桜まつりを開催しています。週明けは!?

さて、江戸後期の医師・多紀元簡(たき もとやす。1755−1810)
奥医師・法眼に叙せられ徳川家斉の侍医となった人物です。
父の主宰する躋寿館が官立の医学館となるとその助教として医官
の子弟の教育にあたり考証学派を大成させた漢方医学界の巨頭です。
最晩年期の自著『医賸』(いしょう。1909)があります。
その中で「世間では、翠竹翁(曲直瀬道三)が糸を引いて脈を診たなどと
伝えているが、このことは未だ医書が述べるところではない」とあります。
これは曲直瀬道三(まなせ どうさん。1507−1594)の『啓迪集』
(けいてきしゅう。1574)の題辞の「屏風を隔て糸を引くことによって
脈を取る方法を得た
」という部分を指しています。元簡は糸脈を医書にも
記載がない如何わしいものだと思っている訳です。

つづいて「『襄陽県志』には(中略)万暦帝の太后が重病の折り、崔真人
がお召しに応じ、御簾の孔より線を引いて脈を診た」と述べています。
『襄陽県志』(じょうようけんし)とは、後漢末から唐代にかけて、
現在の湖北省襄陽市一帯に設置された中国にかつて存在した県の史料です。
「崔真人」とは、南宋代の道士崔嘉彦(さい かげん。1111−1191)は
『紫虚脉訣』の著者でも知られます。道士は神仙方術、医術、房中術、天文、
巫術
などさまざまな術に長けています。 書中には「雲を飛び越え月に至り
(掃雲留月)」「壺の中の異世界に入り込む妙術を得た(得壺公妙術)」
ような仙人です。『西遊記』孫悟空の妖術にも通じる所があります。

元簡は「糸脈」(いとみゃく)を載せた医書はなく、これは小説
や伝承の類から生じた俗説に過ぎないだろうと看破しています。
考証学的にも如何わしいのです。          つづく・・・

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糸脈 4

おはようございます。2018年1月もすっかり後半戦です。
今年はどんな一年になることでしょう。愉しみです。

さて、近代以前の日本では今と違い医師社会的地位は低くかったのです。
身分制度が厳しい中で、医師が高貴な人々を診察・治療する場合において
様々な制限が課されるのは珍しくなかったのです。身分の低い医師は、
将軍や皇族などの侍医でさえ、平伏して決して顔を上げずに脈をうかがった
とされています。

日本の医学の中興の祖である曲直瀬道三(まなせ どうさん。1507−1594)
後世派を広めたことでも知られています。道三の代表的医学書『啓迪集』
(けいてきしゅう。1574)の題辞には「丹波家の三位と称される人に生まれ
ながら医道の真髄を得た者がいる。名声は遍く功績は高く、しばしば比叡山
は根本中堂の薬師如来を訪れ、屏風を隔て糸を引くことによって脈を取る方法
を得た
」とあります。

江戸後期の医師の奈須恒徳(なす つねのり。1774−1841)は多紀元徳
(たき もとのり。1732−1801)に学んでいます。元徳は幕府の奥医師
で徳川家斉の侍医です。この多紀家は丹波家に遡ることができる由緒
ある医家の家系
です。恒徳は後に曲直瀬道三の学説を研究した人です。
自著の医史学書『本朝医談』(1822)には「糸脈とて手に糸をつけて
障子をへだてて病状をうかヾひ知よし俗間にいひ伝ふ。慥かなる証なし
と述べ『啓迪集』題辞を引いています。

同じ江戸後期の和田東郭(1743−1803)は医人として最高位である
法眼に叙せられ、京都の名医として知られました。その門弟による聞書
『蕉窓雑話』(しょうそうざつわ)です。その中で脈診の心得が説かれ
「惶レナカラ上天子ヨリ下乞食ノ子ニ至ル迄、今日其苦ヲ救ヒ病ヲ
除クニオイテハ其術一也ト云フ処ニ安心スヘシ(中略)高貴方ニテモ、
脉腹ハ勿論肩背腿脚ニ至ル迄、其診処ハ遠慮ナク、平人同様ニ精シク
診候スヘシ
。婦女ナトニテモ、トクト胸腹ヲクツロケサセテ、十分手ノ
入ルヤウニシテ見ルヘシ」とあります。

中世・近世において高貴な方に対して、脈診は医者の指先で普通に
診ていた
と考えられます。「糸脈」(いとみゃく)という診断法は
益々怪しい感じがします。    つづく・・・

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