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荻窪 教会通り 恬愉堂鍼灸治療院
宦官 2
おはようございます。今週末で仕事納めの方も
多いことでしょう。てんゆ堂28日(土)までです。

さて、北京には宦官文化陳列館があります。これによると去勢は内務府に属す慎刑司の管轄でしたが、明・清代の北京には政府から去勢を請け負う民間業者が出現しています。清朝末期の北京では南長街會計司胡同の“畢五”、地安門内方磚胡同の“小刀劉”が去勢業の双璧でした。共に設備が整っており技術が優れているために実績が高く死亡率も低かったようです。子供を太監にしたい人は、ここに去勢を依頼したことでしょう。

去勢は手術台では陰茎は天井から下げられた紐に縛って持ち上げカットしやすいようにするようです。または炕(オンドル)の上に腰を浮かせて座らされ刀子匠(執刀医)の助手が浄身者を押さえつけます。全ての準備が整うと刀子匠が数回、「後悔不後悔」(後悔しないか)と念を押し、少しでも躊躇すると浄身は中止されます。「没有悔恨」(後悔ない)と答えれば躊躇することなく即座に… 去勢に使うナイフは閹刀で中華包丁というより出刃包丁に近い形状です。または鎌型に湾曲した小刀陰茎と陰嚢を同時に切断します。

その後は白い紐あるいは繃帯で下腹部と大腿部を堅く縛り、術部を熱い辣椒湯洗浄します。辣椒湯はトウガラシの水溶液と考えられます。これもすざましい痛みと想像されます。医学史上、消毒法はJ.リスター(1827〜1912)が1960年代に外科学で初めて用い、後にコッホが伝染病に応用したのが始まるとされてます。ですから宦官が行われていた時代には、現代のような消毒法は存在しません。

そして白鑞(銅と亜鉛の合金)の針を尿道に挿入して栓をした後、冷水に浸した紙で包んで止血します。助手が浄身者を支えて部屋の中を2〜3時間ゆっくり歩かせ、そののち横にして休ませます。浄身後3日間は水を与えず、喉の渇きと傷口の痛みのため非常な苦痛を味わいますが、3日して白鑞の針を抜き取った時に尿が噴出すれば成功となり、そうでなければ苦悶し誰も救うことはできません。100日たって傷口が全快すると満州族の王府に送られて実務を習い、1年後には紫禁城に移されて正式の職に就くわけです。すざまじい浄身を経験して生きる道を宦官に求めた者の覚悟には敬服します。そうして無事に入宮を果たした太監たちの中から、さらに頭角を現し皇帝など宮中の権力者に仕え栄達する者も出てきます。   〆

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宦官 1
おはようございます。ダウンの寝袋で知られるNANGA
のコラボ・ダウンジャケットを購入。これ”着る寝袋”です。

さて、中国には三大奇習というべきものがあります。 一般的には宦官(かんがん)・纏足(てんそく)・科挙(かきょ)と言われますが、宦官・纏足・人肉食とも言われます。今日は宦官に関する話。宦官は人工的に浄身(去勢)した男性です。中国では宦官を寺人奄人(えんじん)、閹人(えんじん)、浄身、中官、内豎(ないじゆ)などとも称します。ちなみに中国語で去勢は閹割です。最初は戦争で捕虜にした異民族死刑に次ぐ刑罰である宮刑を受けた者に用いられました。李陵の弁護をしたため宮刑にあった司馬遷の悲劇は有名です。

宦官の歴史は古く、古代の甲骨文字にも、すでに去勢を表す文字があります。後宮で働く男性たちと妃や宮女たちとの間に過ちが起きないよう去勢したのが宦官(太監)のはじまりとされています。陝西省にある前漢の第6代景帝(紀元前157〜紀元前141)の陵墓である陽陵から出土された紀元前141年頃の副葬品の土偶のレプリカには宦官俑があります。

時代の変遷とともに自ら去勢し宦官に志願するものが出てきます。この自宮(自ら去勢)ブームが頂点に達したのが明代(1368〜1644)です。幾度も禁令が出されてはいますが、効果が出ないどころかかえって希望者が増える始末でした。中国で官僚になるには科挙という超難関に試験に合格しなければいけません。才能があっても試験官との相性が悪いと合格できませんし、ある程度のお金持ちでなければ試験勉強すらできません。貧しい庶民では宮廷での出世ルートに乗る見込みはほとんどありません。宮廷に潜り込む究極の手口は自宮して宦官になる道があります。科挙、従軍、官吏、宦官が庶民の出世ルートであったのです。また宦官になると国が徴発して行う労役が免除されます。

さらに権力を握った宦官たちは皇帝並かそれ以上の贅沢に耽り親族までもその恩恵にあずかります。「宦官になればあんな贅沢ができる」と真似する者も多く出てきます。今も昔も彼の国では偉くなるとリベートやマージンを取るのは普通のことなのです。日本では公僕は成人君主のような清廉さを求められますが、あくまでも貪欲に金も地位も名誉も求めるというのは今昔変わらない一般的常識です。  つづく・・・

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・宦官 2
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「はり」四字熟語

おはようございます。今日は今季一番の
冷え込みです。空気に初冬の気配を感じです。

さて、ついでにに関する四字熟語もみておきましょう。

/望棒大
読みは「しんしょうぼうだい」です。意味は、たいしたことない物事を、実際より大げさに言うことで、些細なことを大げさに誇張して言う意。語源は「針ほどのことを棒ほどに言う」ということわざです。針ほどの小さく些細なことを、棒ほどに大きく言うという意。類義語は、大言壮語(たいげんそうご)などです。

大海撈針
読みは「たいかいろうしん」です。意味は、非常に困難なこと、ほぼ実現不可能なこと。「撈」はすくい上げること。海の底に落ちた一本の針をすくい上げるという意。語源は「大海に針を撈(すく)う」の訓読です。類義語には、東海撈針(とうかいろうしん)、海底撈針(かいていろうしん)があります。

K犁郎鄂
読みは「ましょさくしん」です。意味は、惜しまずに努力し続ければ、必ず成就することのたとえ。類語には、磨斧作針(まふさくしん)があります。意味は同様です。学問に挫折した若い頃の李白(りはく。唐の詩人)が帰郷するか悩んでいると、鉄の斧を磨いている老女を見かけます。何をしているのか尋ねると「鉄の斧を磨いて針を作っている」と答えました。老女の行動から努力・根気の強さを学んだ李白は学問に励むようになったという故事からとっています。出典は南宋の地理書『方輿勝覧』(ほうよしょうらん)五三「磨針渓」です。

ぬ蔑∧饋
読みは「めんりほうしん」です。意味は、穏やかで優しそうに見えるが、実際は相手に気付かれないような悪意を持っていること。「裏」は内側という意味で、柔らかい綿の中に危険な針を隠すという意。「針」は害意のたとえ。「綿裏に針を包む」は訓読みになります。類義語は、笑裏蔵刀や内疎外親です。

ツ彩膂貎
読みは「ちょうもんのいっしん」です。意味は、要点を的確に突く戒めや忠告のこと。「針」は治療のために使う、鍼灸治療の針のこと。頭頂部にある百会(ひゃくえ)というツボを、一本の針で確実に突いて治療するという意。「頂門一鍼」とも書きます。出典は、北宋の蘇軾(そしょく)が著した『荀卿論』(じゅんけいろん)蘇軾の「以異説高論四字立安、煞是荀卿頂門一鍼」です。

このように針のつく四字熟語があります。スピーチなんかで織り交ぜられたらいいのに…  〆


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「はり」故事・ことわざ 3

おはようございます。清々しい秋晴れが続いています。
空気も乾燥してきましたから加湿を始めるとイイですね。

さて、布地などを縫うときに使ったりするの故事・ことわざの続きを見ていきましょう。

┛の報いは針の先
読みは「あくのむくいははりのさき」です。意味は、悪い行いの報いは、すぐさま自分の身に降りかかってくる意。

今日の一針、明日の十針
読みは「きょうのひとはり、あすのとはり」です。意味は、すぐにしなければならないことを先延ばしすると、余計に手間がかかるということのたとえ。今日なら一針縫えば済むのに、明日に延ばせばほころびが広がり、十針も縫わなければならなくなるという意。何事も処置が遅れると、後で苦労する羽目になります。類語に「適時の一針は九針の手間を省く」「時を得た一針は九針の手間を省く」があります。

針で掘って鍬で埋める
読みは「はりでほってくわでうめる」です。意味は、針を使ってようやく掘った穴を鍬で埋めてしまうということから、苦労してこつこつと作り上げたものを、いっぺんに失くしてしまうことのたとえ。 努力を重ねて少しずつ蓄えた財産をいっぺんに使い果たすことをいう。

磁石に針
読みは「じしゃくにはり」です。意味は、くっつきやすいもののたとえ。多くは男女の仲が接近しやすいことをいう。

針の穴から天を覗く
読みは「はりのあなからてんをのぞく」です。意味は、自分の狭い見識で、大きな物事について勝手な判断をする愚かさのたとえ。「井の中の蛙大海を知らず」「管を以て天を窺う」と同様です。

針の筵
読みは「はりのむしろ」です。意味は、針を植えた敷物の意から、心の休まることのない辛い立場や場所のたとえ。

さてさて、このように鍼(治療用のはり)や針(ぬいばり)の故事・ことわざが多いです。こういうのをさり気なく使えるのは素晴らしいですね。 〆  

 

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・「はり」故事・ことわざ 1
・「はり」故事・ことわざ 2
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「はり」故事・ことわざ 2

おはようございます。ハロウィンも過ぎ、
一気に街の風景はクリスマスモードですね〜。

さて、布地などを縫うときに使ったりするの故事・ことわざも見ておきましょう。

)世曚百蠅辰匿砲曚紐陲
読みは「ぼうほどねがってはりほどかなう」です。意味は、棒ほど願って針ほど叶うとは、望みは大きくても、実際はほんのわずかしか叶わないことのたとえ。

⊃砲曚匹了を棒ほどに言う
読みは「はりほどのことをぼうほどにいう」です。「針小棒大」です。意味は、小さいことを大げさに言うたとえ。

真綿に針を包む
読みは「まわたにはりをつつむ」です。意味は、真綿に針を包むとは、表面はやさしく親切な態度だが、心の中には底意地の悪さを持っていることのたとえ。

た忙匹垢个り
読みは「はりさすばかり」です。意味は、ごくわずかなことのたとえ。出典は、鎌倉初期の説話集『宇治拾遺』(1213−1219頃成)一五「その子孫、世に―の所を知らず」です。

タ砲寮茲覇佑い燭曚
読みは「はりのさきでついたほど」です。意味は、ほんのわずかな程度であることのたとえ。例文は「針の先で突いたほどにも恩義を感じない」などです。

針を蔵に積みても溜まらぬ
読みは「はりをくらにつみてもたまらぬ」です。意味は、いくら努力して小銭をためても、一方で使ってしまえばまとまった蓄えにはならないことのたとえ。出典は、江戸時代前期−中期の『浮世草子』永代蔵または万金丹です

Э砲魄覆特呂鮖匹
読みは「はりをもってちをさす」です。意味は、小さな針で大きな地面を刺す意から、貧しい見識で大きな物事に勝手な判断を下す。また、とてもできそうもないことを企てることのたとえ。 出典は、前漢の劉向の撰ないし編による故事・説話集である『説苑』(ぜいえん)弁物の「譬若二以レ管窺レ天、以レ錐刺一レ地、所レ窺者甚大、所レ見者甚少」です。
古代中国の鍼(治療用)は高貴な人の墓から出土しています。金や銀で作られていますが、現代のような細い針ではなくのような形状の鍼です。主にできものなどに刺して排膿させたり、出血させていたと考えられています。さぞや、痛くて危険な治療法であったことでしょう。  つづく・・・
 

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「はり」故事・ことわざ 1

おはようございます。立冬も過ぎ暦の上
では冬です。そりゃ〜朝晩は寒い訳です。

さて、「はり」には「」と「」の字があります。国語辞典には、針は「布地などを縫うときに使ったり、注射器の先端につけるもので道具」としての意味合いが強く、鍼には「はり医が患部に刺す医療用具。また、それでする療法・鍼術」とあります。「鍼」は鍼灸治療のみに使用される漢字です。現在の日本では治療用の「はり」は「鍼」という字に統一されています。日本鍼灸師会・全日本鍼灸マッサージ師会でも公式文書上「鍼」で統一されています。一方、中国では「針」という字で統一されています。古い中国の古典医書には鍼だけでなく針も使われています。古代中国の遺跡で発掘された鍼は、錐のようにとても太いものです。「鍼」という字は暗黙的に「細いもの」「やさしいもの」という印象があります。ところで鍼や針を用いた故事やことわざが沢山あるのをご存じでしょうか!? 今日は「鍼」に関する故事やことわざを見ていきましょう。

〇爐貿呂柾を刺す
読みは「しにうまにはりをさす」です。意味は、死んでしまった馬に鍼治療を施しても何の意味もないことから、何の効果もないこと、役に立たない無駄なことをするたとえ。また、絶望的な状況でも、なお万が一の期待をこめて最終手段をとってみることのたとえ。 日本古来のことわざですが出典は不明です。

頂門の一針
読みは「ちょうもんのいっしん」です。意味は、頭の上に1本の針を刺す意から、人の急所をついて強く戒めること。また、急所を押さえた教訓。 さらに、批判や教訓が極めて鋭いこと。頂門は頭の頂きにある百会(ひゃくえ)という経穴です。頂の異体字は「巔」「顛」(テン・いただき。山頂や最高を意味する)などで頭頂部などでを指します。古典医書にしばしば登場します。鍼灸治療でそこに鍼を打つことを「頂門一針」といい、急所を押さえた大事な鍼とされています。そのような要点を押さえた決定的な一言または行動に用います。
出典は、北宋の蘇軾(そしょく)が戦国時代の思想家・荀卿(じゅんけい)に対して、荀子(じゅんし)は、聖人の教えと違った意見や実行ができないことを述べて満足していると『荀卿論』で断じました。それに対して明の文学者である王遵巌(おうじゅんげん)が蘇軾『荀卿論』には「異説高論の四字を以て立安す、まことに是れ荀卿頂門の一鍼なり」と、蘇軾の「変わった説、高遠な議論」であると論じているのは荀子に対する急所を押さえた鋭い批評であるといって、いいところを突いているという意味で評しています。
新生児は複数の頭蓋骨で構成された頭部を細長く変形させて経膣分娩して産まれてきます。ですから、新生児の頭部はひし形の大泉門小泉門という骨と骨の継ぎ目部分があります。触ると「ぺこぺこしている」と感じる部分です。大泉門が閉じる時期は2歳前後とされていますが個体差があります。ですから、新生児の頭部への刺鍼は禁忌です。ちなみに大泉門が膨らんでいる場合は、脳に水が溜まる水頭症、脳腫瘍、髄膜炎、脳炎など可能性があります。頭の大きさが急に大きくなる場合は医師の診察を受けましょう。

D砲ぞ紊凌
読みは「いたいうえのはり」です。意味は、痛い所にさらに針を刺す。不運や災難のうえに、さらに不運や災難が重なることのたとえ。同様のことわざは「泣き面に蜂」「踏んだり蹴けったり 」「弱り目に崇り目」などです。 出典は、浮世草子・和国小姓気質(1746)四「一跡(いっせき)残らず、二箇所の土蔵に火の入て、痛(いた)い上の針立(はりたて)」です。

た砲脇櫃泙譴
体が関係するので、ここで取り上げておきます。読みは「はりはのまれず」です。「細くても針は呑めぬ」「小さくとも針は呑まれぬ」ともいいます。「針は鬩まれず」は誤用です。意味は、どんなに細くても針を呑み込むことは出来ないように、たとえ小さくても、それなりの力を持っているから、決して見くびってはいけないということ。類語は「山椒は小粒でもぴりりと辛い」。日本古来のことわざですが出典は不明です。

ジに針
これも体の部位に関連するので紹介します。読みは「くちにはり」です。意味は、言葉がとげとげしく、皮肉や悪意が感じられること。   つづく・・・

 

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玉体 3

おはようございます。先日、逆子の灸で無事に無痛分娩された
方が産まれたカワイイ女の子の顔を見せに来てくれました。

さて、日本の天皇の体は玉体と呼ばれます。直接触れるなど恐れ多いことです。まして「玉体に傷をつけず」という不文律があります。

中国は明代に成立した長編の神話小説『西遊記』には、旅の途中での診察を請われた孫悟空が寝殿近くに参じ、三本の金糸を宦官に渡して、お后かお側付きの方が帝の左腕寸・関・尺(手関節動脈拍動部)の脈所に糸を縛り付け、その糸端で帝の脈を観た糸脈(いとみゃく)の挿話があります。

中国でも貴人に直接触れることはタブー視されています。中国では清朝は1822年に勅令により「針刺火灸,究非奉君之所宜,太醫院針灸一科,著永遠停止」(鍼をもって刺し火をもって灸するは、究ところ奉君の宜しき所にあらず、太医院の鍼灸の一科は、永遠に停止とする)として鍼灸禁止令を発布しています。これは皇帝に対し刺鍼や施灸は行わないことを意味しています。太医院(宮廷医院)に対しての通達であったが、次第に一般社会にも広まり、これまで湯液と双璧をなしていた鍼灸治療が軽視され民間療法となり研究や教育も行なわれなくなり、清代中期から中華民国時代には鍼灸治療の発展は停滞し壊滅的な状態となったという過去があります。

昭和天皇は「進行膵臓ガン」を罹患し膵臓の腫塊が肥大し、十二指腸を圧迫腸閉塞をおこします。結果として玉体に初めてメスをいれることになります。宮内庁病院で開腹手術を受けますが、昭和63年(1988)年9月に大量吐血なされます。そして、昭和64年(1989)1月7日に崩御なされました。また、現天皇陛下もすでに2度の大きな手術が行われています。格式・形式に則る日本国の最高位の神官の天皇というのも下々の者には想像もつかない苦労や心労があることでしょう。  〆

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玉体 2

おはようございます。小さいこと住んでいた地域では、
凍結による水道管破損は珍しくもなかったものです。

さて、天皇の体は玉体と呼ばれます。直接触れるなど恐れ多いことです。まして「玉体に傷をつけず」という不文律があります。

日本の医学の中興の祖である曲直瀬道三(まなせ どうさん。1507−1594)は後世派を広めたことでも知られています。この道三の養子である二代目道三の曲直瀬玄朔(まな せげんさく。1549−1631)は初代道三と共に日本医学中興の祖と称されています。自身の治験集である『医学天正記』(1607年成)には慶長3年(1598)9月1日、後陽成天皇(1571−1617)が28歳の時に突然、眩暈を生じた時の灸治療を行った記録があります。「10月の末、私は膏肓(こうこう)に灸を据えたいと思うと奏上した。(検討のために)貴族たちが集められた。古い記録を調査して、九条殿・二条殿・近衛殿は『先例はないがヨモギの灸を使って本復させること、医師の言うことももっともである。灸治療をさせも良い』という答申を出した。しかし、一条殿・鷹司殿は『先例がない云々』と言って(反対した)。そのため、灸をすることができなかった」とあります。玉体に対して、施灸する(軽度の火傷を負わす)などというのには憚りがあるということです。鍼も灸も恐れ多く、先例がない限り許されない行為とされています。

そして「慶長三年の秋、三日月の時、私(玄朔)は灸治療をしたいと奏上したが、先例がないとして果たせなかった。最近、中之院入道也足軒が古い(施灸の)記録を見つけた。そこで、これを奏上して今回、腫れ物の上に灸をした。これより灸治療を行ってよいということである」とあります。古い施灸の記録とは「外科医の岩倉梅陰庵と大徳寺玄首座の二人が宮中に参内し、縁側の上にて障子を隔てて、紙を破って穴から覗いてみたら腫れ物の上に灸をしていた」というものです。


前近代の貴人は大変です。病気でも虫歯になっても「玉体に傷をつけず」ですから、現代人のように容易に治療を受けるという訳にはいきません。雲上人の世界では一般的な世間からみると異常ともとれることが平然と行われていました。また、こういうことも平然と受け入れていたことでしょう。格式や形式を重んじるが故のことですが…天皇は天子であり日本国の最高位の神官の位置づけですから、仕方がないのかもしれません。  つづく・・・

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玉体 1

おはようございます。先日の残り雪が解け朝は路面凍結です。
自転車で通勤でお子さんを乗せている方は特に注意して欲しい!!

さて、「」という漢字は「たま」た「ぎょく」と読みます。そして、「玉」のつくニ字熟語には玉音(ぎょくいん.ぎょくおん。天皇の声)、玉璽(ぎょくじ。広義では皇帝の用いる璽(印章))、玉座(天皇・王などのすわる席)などがあります。

日本では天皇は「玉」とも呼ばれます。また皇上・聖上・御上と書いて「おかみ」と宮廷内の内々では呼ばれ、香淳皇后も、昭和天皇のことを終生「おかみ」と呼んでいらしたそうです。そして、天皇の体は玉体と呼ばれます。直接触れるなど恐れ多いことになります。格式・形式が厳しい天皇家では、侍医が脈を拝診するときにも、手首の動脈拍動部に糸を縛るまたは手に握ってもらい、その糸端で脈を伺う糸脈(いとみゃく)が昭和天皇の時代にも行われていました。江戸時代の徳川将軍家でも糸脈が実際に行なわれていたようです。

まして「玉体に傷をつけず」という不文律があります。室町時代の外記局官人を務めた中原康富(1400−1457)の日記である『康富記』は応永15年(1408)〜康正元年(1455)に及びます。「応永29年6月17日条」には称光天皇(1401−1428)が応永29年(1422)に病を得たときの記録が残っています。要約すると「『天皇に対して鍼治療を行うのは恐れ多いということで、どうにも治療のしようがない』と言い、下郷という医師が退出した。そこで三条中納言・中御門中納言・中山中納言などが、これをどう処置すべきか話し合った。そこに清史が参上して、『我が国に鍼博士を置いているのは、このような場合のためであり、何で絶対に鍼を使っていけないと言うことがあろう』と上申した。これにより所詮は医術という権道(目的を達成するためにとる便宜的な手段・方法)を用いるのだから、鍼治療も問題ないという評定が下った。そこで下郷は鍼治療を行った」とあります。 つづく・・・

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糸脈 8

おはようございます。東京では珍しく最低気温が連日氷点下です。
てんゆ堂の治療室もトリプル暖房フル稼働でお迎えしています。

さて、天皇皇后両陛下、皇太子ご一家には「侍医」と呼ばれる医師がついています。両陛下には侍医長3人の侍医24時間体制で勤務。国内外の公務先にも同行することが多いです。昭和天皇の時代、侍医たちはモーニングに身を包み天皇を診察していたようです。侍医は天皇を皇上・聖上・御上(おかみ)と呼んでいます。宮廷内の方々が使われる内々の呼び名であるようで、香淳皇后も昭和天皇のことを終生「おかみ」と呼んでいらしたそうです。

明治天皇の頃から皇室の方々の診察をは東大教授と決まっていました。当時の日本では東大の医学部が最高レベルであり、万が一間違ったとしてもそれ以上の診断はできないだろうという考えがあったからです。その考えは今も宮内庁に受け継がれています。宮内庁病院に招かれる医師もほとんど東大出身です。そうした侍医たちのトップに立ち、天皇の健康を管理する統括責任者といわれるのが医務主管です。医務主管は皇室に関する医務を統括して両陛下および皇太子ご一家の医療の方針を決めるなど重大な責務を担っています。出産や手術といった大きな医療行為になると「専門の御用掛」(非常勤の国家公務員)が選ばれ、どの病院でどんな治療を受けるかということを陛下と医務主管と御用掛の三者で決めます。

昭和天皇の時代は、毎日欠かすことなく朝と晩の二回、体温(おぬる)とお脈を頂戴して拝診し、かつ、大便(おとう)と 尿(おじゃじゃ)を拝見しつつ、さらにまた週一回は念入りな「定期拝診」が実施されるといった万全の体制をとって日夜その重い任にあたっています。今は侍医が挨拶を兼ねて、顔色を拝見し、その日の体調のチェックをするようです。両陛下から「熱っぽい」などの訴えがあって初めて体温の計測をするそうです。

元侍医の伊東貞三医師は昭和天皇に対して糸脈(いとみゃく)を行っていたと述べています。この伊藤医師は徳川家定の御典医を務めた伊東玄朴、明治天皇の侍医を務めた伊東方成を祖先にもつ由緒ある家系の出身です。しかし、日本の最高学府で西洋医学を学んだ医師からすれば「ままならぬ糸脈」だったことでしょう。これでは診察・診断・治療もままなりません。格式・形式というのは大変なものです。自著『昭和天皇 晩年の想い出』の中で「昭和62年(1987)年4月29日。誕生日の昼餐会中に嘔吐した満86歳を迎えた昭和天皇の体で起こっている異変に気付いていた」とあります。昭和天皇は「進行膵臓ガン」であり膵臓の腫塊が肥大し十二指腸を圧迫腸閉塞をおこしていたのです。結果として玉体に初めてメスをいれることになります。宮内庁病院で開腹手術を受けますが、昭和63年(1988)年9月に大量吐血なされます。そして、昭和64年(1989)1月7日に崩御なされました。

格式・形式に則る天皇家ですから平成天皇も糸脈をされているかもしれません。しかし、すでに現天皇陛下は2度の大きな手術が行われています。 歴史的にも、「脈を取る」という表現が診察するという意味もあり、昔は貴人の診察に直接肌に触れることは御法度で離れた所から脈を取ったということになります。孫悟空神通力の挿話を基盤とする糸脈。現代にも息づいてるかもしれません。ということで糸脈の話でした。 〆

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