● 荻窪 教会通り てんゆ堂鍼灸院 「日日是好日」●

    
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荻窪 教会通り 恬愉堂鍼灸治療院
玉体 3

おはようございます。先日、逆子の灸で無事に無痛分娩された
方が産まれたカワイイ女の子の顔を見せに来てくれました。

さて、日本の天皇の体は玉体と呼ばれます。直接触れるなど恐れ多いことです。まして「玉体に傷をつけず」という不文律があります。

中国は明代に成立した長編の神話小説『西遊記』には、旅の途中での診察を請われた孫悟空が寝殿近くに参じ、三本の金糸を宦官に渡して、お后かお側付きの方が帝の左腕寸・関・尺(手関節動脈拍動部)の脈所に糸を縛り付け、その糸端で帝の脈を観た糸脈(いとみゃく)の挿話があります。

中国でも貴人に直接触れることはタブー視されています。中国では清朝は1822年に勅令により「針刺火灸,究非奉君之所宜,太醫院針灸一科,著永遠停止」(鍼をもって刺し火をもって灸するは、究ところ奉君の宜しき所にあらず、太医院の鍼灸の一科は、永遠に停止とする)として鍼灸禁止令を発布しています。これは皇帝に対し刺鍼や施灸は行わないことを意味しています。太医院(宮廷医院)に対しての通達であったが、次第に一般社会にも広まり、これまで湯液と双璧をなしていた鍼灸治療が軽視され民間療法となり研究や教育も行なわれなくなり、清代中期から中華民国時代には鍼灸治療の発展は停滞し壊滅的な状態となったという過去があります。

昭和天皇は「進行膵臓ガン」を罹患し膵臓の腫塊が肥大し、十二指腸を圧迫腸閉塞をおこします。結果として玉体に初めてメスをいれることになります。宮内庁病院で開腹手術を受けますが、昭和63年(1988)年9月に大量吐血なされます。そして、昭和64年(1989)1月7日に崩御なされました。また、現天皇陛下もすでに2度の大きな手術が行われています。格式・形式に則る日本国の最高位の神官の天皇というのも下々の者には想像もつかない苦労や心労があることでしょう。  〆

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玉体 2

おはようございます。小さいこと住んでいた地域では、
凍結による水道管破損は珍しくもなかったものです。

さて、天皇の体は玉体と呼ばれます。直接触れるなど恐れ多いことです。まして「玉体に傷をつけず」という不文律があります。

日本の医学の中興の祖である曲直瀬道三(まなせ どうさん。1507−1594)は後世派を広めたことでも知られています。この道三の養子である二代目道三の曲直瀬玄朔(まな せげんさく。1549−1631)は初代道三と共に日本医学中興の祖と称されています。自身の治験集である『医学天正記』(1607年成)には慶長3年(1598)9月1日、後陽成天皇(1571−1617)が28歳の時に突然、眩暈を生じた時の灸治療を行った記録があります。「10月の末、私は膏肓(こうこう)に灸を据えたいと思うと奏上した。(検討のために)貴族たちが集められた。古い記録を調査して、九条殿・二条殿・近衛殿は『先例はないがヨモギの灸を使って本復させること、医師の言うことももっともである。灸治療をさせも良い』という答申を出した。しかし、一条殿・鷹司殿は『先例がない云々』と言って(反対した)。そのため、灸をすることができなかった」とあります。玉体に対して、施灸する(軽度の火傷を負わす)などというのには憚りがあるということです。鍼も灸も恐れ多く、先例がない限り許されない行為とされています。

そして「慶長三年の秋、三日月の時、私(玄朔)は灸治療をしたいと奏上したが、先例がないとして果たせなかった。最近、中之院入道也足軒が古い(施灸の)記録を見つけた。そこで、これを奏上して今回、腫れ物の上に灸をした。これより灸治療を行ってよいということである」とあります。古い施灸の記録とは「外科医の岩倉梅陰庵と大徳寺玄首座の二人が宮中に参内し、縁側の上にて障子を隔てて、紙を破って穴から覗いてみたら腫れ物の上に灸をしていた」というものです。


前近代の貴人は大変です。病気でも虫歯になっても「玉体に傷をつけず」ですから、現代人のように容易に治療を受けるという訳にはいきません。雲上人の世界では一般的な世間からみると異常ともとれることが平然と行われていました。また、こういうことも平然と受け入れていたことでしょう。格式や形式を重んじるが故のことですが…天皇は天子であり日本国の最高位の神官の位置づけですから、仕方がないのかもしれません。  つづく・・・

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玉体 1

おはようございます。先日の残り雪が解け朝は路面凍結です。
自転車で通勤でお子さんを乗せている方は特に注意して欲しい!!

さて、「」という漢字は「たま」た「ぎょく」と読みます。そして、「玉」のつくニ字熟語には玉音(ぎょくいん.ぎょくおん。天皇の声)、玉璽(ぎょくじ。広義では皇帝の用いる璽(印章))、玉座(天皇・王などのすわる席)などがあります。

日本では天皇は「玉」とも呼ばれます。また皇上・聖上・御上と書いて「おかみ」と宮廷内の内々では呼ばれ、香淳皇后も、昭和天皇のことを終生「おかみ」と呼んでいらしたそうです。そして、天皇の体は玉体と呼ばれます。直接触れるなど恐れ多いことになります。格式・形式が厳しい天皇家では、侍医が脈を拝診するときにも、手首の動脈拍動部に糸を縛るまたは手に握ってもらい、その糸端で脈を伺う糸脈(いとみゃく)が昭和天皇の時代にも行われていました。江戸時代の徳川将軍家でも糸脈が実際に行なわれていたようです。

まして「玉体に傷をつけず」という不文律があります。室町時代の外記局官人を務めた中原康富(1400−1457)の日記である『康富記』は応永15年(1408)〜康正元年(1455)に及びます。「応永29年6月17日条」には称光天皇(1401−1428)が応永29年(1422)に病を得たときの記録が残っています。要約すると「『天皇に対して鍼治療を行うのは恐れ多いということで、どうにも治療のしようがない』と言い、下郷という医師が退出した。そこで三条中納言・中御門中納言・中山中納言などが、これをどう処置すべきか話し合った。そこに清史が参上して、『我が国に鍼博士を置いているのは、このような場合のためであり、何で絶対に鍼を使っていけないと言うことがあろう』と上申した。これにより所詮は医術という権道(目的を達成するためにとる便宜的な手段・方法)を用いるのだから、鍼治療も問題ないという評定が下った。そこで下郷は鍼治療を行った」とあります。 つづく・・・

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糸脈 8

おはようございます。東京では珍しく最低気温が連日氷点下です。
てんゆ堂の治療室もトリプル暖房フル稼働でお迎えしています。

さて、天皇皇后両陛下、皇太子ご一家には「侍医」と呼ばれる医師がついています。両陛下には侍医長3人の侍医24時間体制で勤務。国内外の公務先にも同行することが多いです。昭和天皇の時代、侍医たちはモーニングに身を包み天皇を診察していたようです。侍医は天皇を皇上・聖上・御上(おかみ)と呼んでいます。宮廷内の方々が使われる内々の呼び名であるようで、香淳皇后も昭和天皇のことを終生「おかみ」と呼んでいらしたそうです。

明治天皇の頃から皇室の方々の診察をは東大教授と決まっていました。当時の日本では東大の医学部が最高レベルであり、万が一間違ったとしてもそれ以上の診断はできないだろうという考えがあったからです。その考えは今も宮内庁に受け継がれています。宮内庁病院に招かれる医師もほとんど東大出身です。そうした侍医たちのトップに立ち、天皇の健康を管理する統括責任者といわれるのが医務主管です。医務主管は皇室に関する医務を統括して両陛下および皇太子ご一家の医療の方針を決めるなど重大な責務を担っています。出産や手術といった大きな医療行為になると「専門の御用掛」(非常勤の国家公務員)が選ばれ、どの病院でどんな治療を受けるかということを陛下と医務主管と御用掛の三者で決めます。

昭和天皇の時代は、毎日欠かすことなく朝と晩の二回、体温(おぬる)とお脈を頂戴して拝診し、かつ、大便(おとう)と 尿(おじゃじゃ)を拝見しつつ、さらにまた週一回は念入りな「定期拝診」が実施されるといった万全の体制をとって日夜その重い任にあたっています。今は侍医が挨拶を兼ねて、顔色を拝見し、その日の体調のチェックをするようです。両陛下から「熱っぽい」などの訴えがあって初めて体温の計測をするそうです。

元侍医の伊東貞三医師は昭和天皇に対して糸脈(いとみゃく)を行っていたと述べています。この伊藤医師は徳川家定の御典医を務めた伊東玄朴、明治天皇の侍医を務めた伊東方成を祖先にもつ由緒ある家系の出身です。しかし、日本の最高学府で西洋医学を学んだ医師からすれば「ままならぬ糸脈」だったことでしょう。これでは診察・診断・治療もままなりません。格式・形式というのは大変なものです。自著『昭和天皇 晩年の想い出』の中で「昭和62年(1987)年4月29日。誕生日の昼餐会中に嘔吐した満86歳を迎えた昭和天皇の体で起こっている異変に気付いていた」とあります。昭和天皇は「進行膵臓ガン」であり膵臓の腫塊が肥大し十二指腸を圧迫腸閉塞をおこしていたのです。結果として玉体に初めてメスをいれることになります。宮内庁病院で開腹手術を受けますが、昭和63年(1988)年9月に大量吐血なされます。そして、昭和64年(1989)1月7日に崩御なされました。

格式・形式に則る天皇家ですから平成天皇も糸脈をされているかもしれません。しかし、すでに現天皇陛下は2度の大きな手術が行われています。 歴史的にも、「脈を取る」という表現が診察するという意味もあり、昔は貴人の診察に直接肌に触れることは御法度で離れた所から脈を取ったということになります。孫悟空神通力の挿話を基盤とする糸脈。現代にも息づいてるかもしれません。ということで糸脈の話でした。 〆

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糸脈 7

おはようございます。未明まで雪が降り続いてせいで朝から
雪かきです。足元が悪くなっておりますので要注意です。

さて、「糸脈」(いとみゃく)は天子(天皇)などの貴人の脈所に絹糸の一端をかけ他端を医者が持ち、糸に伝わる脈を間接的にはかります。貴人などの肌に直接触れることを避けるために行われたとされています。

朝廷の臣である一条家侍・下橋敬長(しもはし ゆきおさ。1845−1924)が述べた『幕末の宮廷』には「天脈拝診」について書かれています。その中では糸脈は行われていません。敬長は維新後は京都に留まります。しかし、昭和天皇に対し侍医が糸脈を行っていたと述べています。

幕末は尊王攘夷・王政復古を旗印に動乱の時期です。慶応4年(1867)に孝明天皇の突然の崩御に際し、満14歳という若さで明治天皇(1852−1912)は皇位に就きます。そして、第15代将軍・徳川慶喜大政奉還し新政府軍へ江戸開城を行ないます。そして、新政府は浪華(大阪)遷都を草案しますが廃し、江戸に行幸し、江戸は東京になり、一旦京都に還幸後、明治2年(1869)に再び東京に移り崩御まで居住しました。天皇は約800年は政治に関わっていませんし、側近の公家は乗らり暮らした人たちばかりですから、それをこの期に一掃し武家出身の侍従を配する訳です。天皇に乗馬や武術を教え近代国家にふさわしい理想天皇を作ろうとしたのです。明治22年(1889)には大日本帝国憲法を公布。この憲法は日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記し立憲君主制国家確立の基礎となりました。明治政府が打ち立てた大日本帝国は神格化された絶対的存在である天皇を頂点とした疑似的宗教国家であり、また神州思想の上から天皇は現人神(あらひとがみ)とされたのです。天皇権の確立によって天皇は生きながら神である現人神という超人間的存在とされるにいたったのです。

この明治天皇には「すり替え説」も存在します。そもそも1336年、足利尊氏光明天皇を擁立したため後醍醐天皇は南の吉野に逃れ、日本は二人の天皇が並び立つ南北朝時代に突入しました。後醍醐天皇の南朝では北畠親房『神皇正統記』を著して、南朝こそが正統であるとし、北朝を牽制する動きを見せます。ところが結局、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇三種の神器を渡すことで南北朝は合体しました。しかし、その後も南朝正統論というのは根強く残っていきます。江戸時代に徳川光圀が編纂した『大日本史』や頼山陽の著した『日本外史』も南朝正統論の立場をとっていました。明治天皇は「南朝」であり、密かに「北朝」の天皇は暗殺されという話が実しやかに語り継がれています。

新政府樹立の旗印である天皇を東京に移し、すり替えて都合がいいように使いたい… 天皇を神格化して隔離すれば… そして、天皇は「」(ぎょく)とも呼ばれ、現人神の玉体(天皇の体)に直接触れるなど恐れ多いことになります。まして「玉体に傷をつけず」という不文律があり、昭和天皇の「進行膵臓ガン」において初めて玉体にメスが入ったとされています。こうしてみると、糸脈は天皇家では明治天皇から行われ格式・形式の継承により昭和天皇にも受け継がれ行われていたと推察されます。  つづく・・・

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糸脈 6

おはようございます。先週末から今日は「」の予報でした。
多少はイイのですが大雪は困ります。足元を気をつけてください。

さて、下橋敬長(しもはし ゆきおさ。1845−1924)は代々、朝廷の臣である一条家侍の家柄で、慶応3年(1867)により家督を継承しています。維新後も京都に留まり、皇学所監察助勤・御陵衛士などを経て京都御所に勤め、殿丁・仕人・殿部などを歴任しました。敬長が述べた『幕末の宮廷』には「天脈拝診」について書かれている部分があります。その中には「同じ典薬寮に、医生と医師の二つがある。それは何故にと申しますと、親が天脈(天子の脈)を拝診いたしますと、息子がつき出しに(最初から医生を経ずに)典薬寮の医師になる。例えば、あなたが天脈をお握り遊ばすと、あなたの御子さんは、に典薬寮の医師になる。あなたが天脈を握ったことがありませぬと、あなたの御子さんは医生から行く。それ故に、其身天脈を拝診せさるれば、其子任官の節は、父同様典薬寮医師に補せられる。其身天脈を拝診せざれば、其子任官の節は、薬寮医生に補せられる(中略)所が、賀川は可哀さうに、天脈を拝診を致しませね。賀川だけはどうしても出来ぬ。是は皇后さんの方で、お産の為の医者ですから、皇后さんのお脈が握ってますが、天子様のお脈は握らぬのでございます」(103コマ)。

「典薬寮」(てんやくりょう/くすりのつかさ)とは、宮内省に属する医療・調薬を担当する役所です。その歴史は古く、 天武天皇5年 (676) に設置された外薬寮が大宝1 年(701) で「大宝令」により組織を整えたものです。

「賀川」とは、江戸時代の産科医・賀川玄悦(かがわげんえつ。1700−1777)に基づく賀川流産科術の産科医を指します。玄悦は母子を共に守る目的で出産用の鉗子を発明し、胎児の正常胎位(胎児が母体中で頭を下にしていること)を世界に先がけて発見したことでも知られています。

また、『幕末の宮廷』には「(問)典薬寮が出まして天脈を拝診します場合は…(答)天子が小御所の御上段に出御遊ばされ、それへ向けて、お医師が六位(日本の位階における位の一つ)の袍(朝服の上衣)を着て出ます。さうすると、御上が御手をお出し遊ばれます。そこで天脈を拝診します」(106コマ)。

「天脈拝診」とは「天脈をお握り遊ばす」とあるように文字通り、天皇の手を握って脈を取ることです。幕末の時代には天皇に対してさえ「糸脈」(いとみゃく)は行われていなかったということになります。 つづく・・・

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糸脈 5

おはようございます。今日は「大寒」です。熱海では早咲きの
河津桜」が咲き桜まつりを開催しています。週明けは!?

さて、江戸後期の医師・多紀元簡(たき もとやす。1755−1810)は奥医師・法眼に叙せられ徳川家斉の侍医となった人物です。父の主宰する躋寿館が官立の医学館となるとその助教として医官の子弟の教育にあたり考証学派を大成させた漢方医学界の巨頭です。最晩年期の自著『医賸』(いしょう。1909)があります。その中で「世間では、翠竹翁(曲直瀬道三)が糸を引いて脈を診たなどと伝えているが、このことは未だ医書が述べるところではない」とあります。これは曲直瀬道三(まなせ どうさん。1507−1594)の『啓迪集』(けいてきしゅう。1574)の題辞の「屏風を隔て糸を引くことによって脈を取る方法を得た」という部分を指しています。元簡は糸脈を医書にも記載がない如何わしいものだと思っている訳です。

つづいて「『襄陽県志』には(中略)万暦帝の太后が重病の折り、崔真人がお召しに応じ、御簾の孔より線を引いて脈を診た」と述べています。『襄陽県志』(じょうようけんし)とは、後漢末から唐代にかけて、現在の湖北省襄陽市一帯に設置された中国にかつて存在した県の史料です。「崔真人」とは、南宋代の道士崔嘉彦(さい かげん。1111−1191)は『紫虚脉訣』の著者でも知られます。道士は神仙方術、医術、房中術、天文、巫術などさまざまな術に長けています。 書中には「雲を飛び越え月に至り(掃雲留月)」「壺の中の異世界に入り込む妙術を得た(得壺公妙術)」ような仙人です。『西遊記』孫悟空の妖術にも通じる所があります。

元簡は「糸脈」(いとみゃく)を載せた医書はなく、これは小説や伝承の類から生じた俗説に過ぎないだろうと看破しています。考証学的にも如何わしいのです。   つづく・・・

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糸脈 4

おはようございます。2018年1月もすっかり後半戦です。
今年はどんな一年になることでしょう。愉しみです。

さて、近代以前の日本では今と違い医師社会的地位は低くかったのです。身分制度が厳しい中で、医師が高貴な人々を診察・治療する場合において様々な制限が課されるのは珍しくなかったのです。身分の低い医師は、将軍や皇族などの侍医でさえ、平伏して決して顔を上げずに脈をうかがったとされています。

日本の医学の中興の祖である曲直瀬道三(まなせ どうさん。1507−1594)は後世派を広めたことでも知られています。道三の代表的医学書『啓迪集』(けいてきしゅう。1574)の題辞には「丹波家の三位と称される人に生まれながら医道の真髄を得た者がいる。名声は遍く功績は高く、しばしば比叡山は根本中堂の薬師如来を訪れ、屏風を隔て糸を引くことによって脈を取る方法を得た」とあります。

江戸後期の医師の奈須恒徳(なす つねのり。1774−1841)は多紀元徳(たき もとのり。1732−1801)に学んでいます。元徳は幕府の奥医師で徳川家斉の侍医です。この多紀家は丹波家に遡ることができる由緒ある医家の家系です。恒徳は後に曲直瀬道三の学説を研究した人です。自著の医史学書『本朝医談』(1822)には「糸脈とて手に糸をつけて障子をへだてて病状をうかヾひ知よし俗間にいひ伝ふ。慥かなる証なし」と述べ『啓迪集』題辞を引いています。

同じ江戸後期の和田東郭(1743−1803)は医人として最高位である法眼に叙せられ、京都の名医として知られました。その門弟による聞書が『蕉窓雑話』(しょうそうざつわ)です。その中で脈診の心得が説かれ「惶レナカラ上天子ヨリ下乞食ノ子ニ至ル迄、今日其苦ヲ救ヒ病ヲ除クニオイテハ其術一也ト云フ処ニ安心スヘシ(中略)高貴方ニテモ、脉腹ハ勿論肩背腿脚ニ至ル迄、其診処ハ遠慮ナク、平人同様ニ精シク診候スヘシ。婦女ナトニテモ、トクト胸腹ヲクツロケサセテ、十分手ノ入ルヤウニシテ見ルヘシ」とあります。

中世・近世において高貴な方に対して、脈診は医者の指先で普通に診ていたと考えられます。「糸脈」(いとみゃく)という診断法は益々怪しい感じがします。 つづく・・・

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糸脈 3

おはようございます。乾燥続きでしたが、昨日は久しぶりの
こうした潤いが徐々に春を呼ぶのでしょう。これもまた良し。

さて、「糸脈」(いとみゃく)は中国から伝わったとされています。それは明代に成立した長編の神話小説『西遊記』によるのです。

糸脈の話は、旅の途中での診察を請われた孫悟空が寝殿近くで三本の金糸を宦官に渡して、お后かお側付きの方が帝の左腕の寸・関・尺(手関節動脈拍動部)の脈所に糸を縛り付け、糸端を渡してくれるよう頼みます。悟空は三本の糸の端を親指・人差し指、次は親指と中指、さらに親指と薬指といった具合に二本の指で軽く引っ張りながら自分の呼吸と合わせつつ脈の動きを診て取ります。糸脈を終えた悟空は「陛下の左手の寸脈は早く、関脈は緩やか、尺脈は非常に遅うございます。左手の症状から申しますと心臓がドキドキする、汗をかかれる小便にも大便にも血が混じっておられる。そういうような症状はございませんか」と大声で尋ねます。中で聞いていた帝は思わず、「その通り、その通り」と言うのです。そこで悟空は大袈裟にも八百八味の薬を三升ずつ取り寄せます。しかし実際に使ったのは大黄と峻下剤の巴豆(はず)だけで、これにかまどの墨馬の尿それに雨水などを混ぜて帝に飲ませ見事に回復させてしまいます。肝心の妙薬は何かと聞かれた悟空は「馬兜鈴(ばとうれい)を用いました」と涼しい顔で路傍の雑草であるウマノスズクサの漢名を答えるというものです。
       糸脈の場面の挿絵
      『李卓悟先生批評本西遊記』(内閣文庫蔵)

中国では鍼灸のバイブルである『黄帝内経』(こうていだいけい)も伝説の皇帝である黄帝仮託したものであり、こういう伝説や挿話が歓迎されているようです。この糸脈も一飛びで十万八千里を行くというキン斗雲の法を会得した孫悟空にだけ可能であり、中国の伝説の名医で知られる扁鵲倉公の話をオーバーラップするような例え話として悟空が糸脈ができる腕前だったと語り継がれてきたと考えられます。  つづく・・・

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糸脈 2

おはようございます。大学センター試験など受験シーズン到来です。
鍼灸師国家試験は2月25日(日)です。ラストスパートです。

さて、この「糸脈」(いとみゃく)は中国から伝わったとされています。しかし、文献資料は少なく医学史家の間でも眉唾ものとされています。ですが、この糸脈を昭和天皇にも対しても行ってました。

江戸時代 後期の儒者・鈴木桃野(1800−1852)の随筆『無可有郷』(むかうのさと。1830頃)には「糸脈といふ事、医家口常にこれを称すといへども、終に為せしといふことを聞かず。蓋しその法を知らざるなり…糸ミやくの事しばし医家に問ひしかが、未得分明」とあります。当時でも特殊な診断法であったようです。そして「比ごろ西遊記を読むに…糸脈をとる法あり。これにて見れば…是、大いに利あり。然れども、その人扁倉にあらざれば不能ことならん。是その法をしるといへども、後世に用ゆる能ハざる所以なり。蓋し、此こと妄なるべし。況や稗官小説載せるところをや」とあります。

「扁倉」とは中国では伝説の名医で知られる扁鵲(へんじゃく)と倉公(そうこう)です。「稗官小説」は街説・巷談を主題としたものです。つまり、糸脈は医書に基づくものでなく、伝説などによる架空の診断法であり、現実の診断法ではないことになります。

江戸中期の公家・有職(ゆうそく)家・紀宗直(きの むねなお。1703−1785)が著した『宝石類書』があります。医書ではないが「医薬」の部が設けられており、医療に関する過去の記録を蒐集しています。その中に「絲脉」の項目があります。この項の記録として掲げられるのは小説『西遊記』です。糸脈とは伝説中の話を基盤にしているのです。

明代に成立した長編の神話小説『西遊記』の粗筋は三蔵法師が仏典を求めて天竺と呼ばれていたインドを旅し孫悟空が猪八戒や沙悟浄とともに法師を守って色々ないろんな妖魔と戦い念願を果たす物語で豊かな空想力やユーモアを交えて説かれています。そもそも中国のに糸脈を行った張本人は孫悟空です。 つづく・・・

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